かごぼん具'

おでかけにっき

さいたま歩き2

三連休でローカルを偵察してきた。徒歩で。

琵琶島古墳

上から観ると70m×25mの細長い丘。高さ4m程の頂点に祠があり、稲荷神社と書かれた鳥居がある。

さいたま市遺跡地図でもGoogleMapでも琵琶島古墳と表示されているのだが、案内板の類いは一切無い。


地理院地図の1945年の空撮写真で確認してみた。

現在よりも南東に30m長い丘で、周囲は水田。当時から怪しさ爆発地形。古墳にしては、段丘の下にあるのは不自然。

明治時代まで遡ってみた。歴史的農業環境閲覧システムからキャプチャ。

前方後方墳に見えなくもないが、自然地形と言われても違和感はない。なんだこれは?

五味貝戸貝塚

琵琶島古墳から南東方向に約1km。古入間川が削り取った崖線沿いにある*1。案内板があった。

周囲には白い貝殻が無数に落ちていた。本物の貝塚や!

縄文海進のときはこの辺まで東京湾が入り込んでいたのか。

大塚古墳

川越線の踏切近くにある由緒正しい古墳。大きさは21×25x4m。だが、石造りの案内柱があるだけで、案内板なし。

道路が迂回しているため、保護されているのは判る。1945年の空撮写真でも田んぼの真ん中にポツンと佇んでいる。

この辺の古墳は円墳が多いが、此処だけ方墳で珍しい。尤も大昔は周囲に古墳が点在しており、大塚古墳群と呼ばれていたらしい。

次の目的地へ向かう途中、川越線撮影スポットを通りかかったら、ちょうど70-000形が来た。

里塚古墳

直径3〜4m×高さ1m程の盛り土地形が確認出来る。古墳にしては相当小さい。塚にカテゴライズされるレヴェル。

さいたま市遺跡地図では竹林北側の民家の敷地内にマッピングされている。場所が違うのにGoogle Mapsでは此処が里塚古墳となっているのが混乱を招く要素。写真はおそらく里塚古墳ではないだろう。

側に大正14年付けの石碑があった。

太々御神楽講記念碑と彫ってある。後述の八雲神社に神楽を奉納したときの記念碑であろ。

八雲神社(宮前町)

里塚古墳の東側。鳥居は西向きなのに、拝殿は南を向いている。つまり、参道が90度折れ曲がっている由緒正しい構造の神社。*2

由緒書きによると、1466~1705年に上内野村から分村した内野村の鎮守。内野村は明治12年に西内野村となり、明治22年の町村制施行に伴い周辺6村と合併して日進村となる。明治40年の神社統合では、日進神社への合祀を免れたとある。境内には石碑が多く、歴史の古さを物語っている。しかし、神殿の壁は剥がれ落ちて、あまり手入れされていない様子。

神明神社古墳

鴻沼排水路に東西縁用水が合流する辺りにある円墳。

直径33m×高さ4.5mは、さいたま市最大規模

説明書きによると、西堀舌状台地の最南端に位置するとある。台地は鴻沼排水路によって南北に分断されてしまったが、古墳が造られやすい地形であることからも古墳に違いない。

田島氷川神社

江戸時代初期から続く武蔵国足立郡与野領に属する田島村の鎮守。

境内南側を囲むように堀があり、鯉が優雅に泳いでいた。お堀は旧鴻沼排水路の河道跡を利用している。しかし、現在の鴻沼排水路のほうが河床低いので取水できない筈。西側に回り込むと石積みで擬装されたポンプ揚水ぽい構造物があった。

1945年頃の空撮写真

鴻沼資料館

さいたま市立博物館の分館、午前9〜12時しか開いてない。鴻沼の歴史と農具を展示した資料館。見学無料。

鴻沼はかつて浦和台地と西堀舌状台地の間にあった細長い自然湖沼。古鴻沼川が刻んだ谷が縄文海進で入り江となり、海退で取り残されたと考えられる。八代将軍吉宗の時代に干拓されて水田となった。干拓のために開削された人工河川が鴻沼排水路。沼の代わりに水源として見沼代用水西縁から導水して、東西の台地のキワに用水が整備された。高沼代用水*3西縁・東縁として現存している。資料館は人力農耕時代の農具展示がメイン。
縄を編む機械

右の漏斗状の口から稲わらを交互に投げ入れ、機械ごと回転しながら縄を編んでドラムに巻き取っていく。動力は農業用200Vモーター。

風力でもみ殻と玄米を選別する農具

右側の丸い構造体の中にブロワが仕込んであり、ハンドルを人力で回して風を起こす。上から脱穀した籾を入れると、もみ殻だけが風圧で飛ばされ、玄米が下から出てくる仕組み。

何故に詳しいかというと、子供の頃に手伝っていたから。(゚ー゚;

3階のパネル展示がお目当てだった。

上に書いたような内容が図入りで詳細に説明されていた。満足した。

なお、当ブログに記載の内容は、ほぼ個人の感想ですので、盲信しないよう願います。

*1:低地との標高差が5~6mある崖線が3km以上続いていて、規模的に入間川(現・荒川)の河岸段丘しかないなと勝手に思ってる。

*2:参道は拝殿に対して正中していない造りが古来の伝統。正中すると、神様に対して敵対していると見なされる考えがあったと言われている。

*3:読み書きに差があった時代、「鴻」の字が農民には難しいので「高」が当てられた。そのため、高沼代用水とも呼称される。